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覚悟することは降伏(運命論)

いや、まあ。そろそろ来るんじゃないかなと覚悟はしていたんですよ、覚悟。
でも覚悟することと備えることは違うと言いますか平穏は良きことと申しますか要するにネタないです。というか眠い。まあさっさと終わらせたほうがいいでしょう。

しかし、考えてみれば2015年までもう500日無いんですね。2014?知らんな。
時の流れとは早いもので、なんやかんやとやってきたこの日記もいつの間にかそろそろ2年目なんですねぇ。ネタ出し辛すぎて5年ぐらいやってる気がした

かくして主観時間というものはあてにならないのです。時計でも埋め込まてるわけじゃぁあるまいし。きっと水晶ドクロの持ち主は生前時間に厳格だったんでしょう。と、言うことは現代人の墓の下にはお宝満載・・・?

そう思って墓場に行ってみたんですが特に何もなく、死体と墓石とお供え物と雑草しかなかったです。なんだ。お隣製パチもんか。

死人がオクターブに一足りない程度の向こう側から乗り越えてこないようにするためにもレーザーを発振しましょうそうしましょう。パルスはもちろん叡智の結晶たる矩形波です。まあ聞き慣れない人には違和感があるでしょうがなれるでしょう。そう、知恵の実ならね。

赤から漂白したつながりで次は燃えないごみさんにお願いします。ヨッロピコ

ぷんぐら

そろそろ日記を回さねばならぬと義憤に駆られ筆を執ったはいいのですが、何を書いたものかと途方に暮れている次第です。

前回から揚げ足を掬おうなどとも考えたのですが、呪いなどというものを矢面に立たせるほどに気力は残ってだーめんどくせぇこの書き方。

というわけで藁い袋です。まあネタがないのは相変わらず。いつものことでございまう。s(複数形)

どうでもいいけど上の前回から揚げ足が前回とからの間で切れて見えて腹減ります。おかしい、ちょっと前に唐揚げ食べたはずなんだが。

ここ最近、具体的には2面ほど趣味趣向に関しての日記なる傾向だそうでしてからに次の日記は書いている最中に食事へ言ったロベルトさんにお任せして私も倣おうと思います。

さて、最近書庫の掃除をする機会がありまして、その時昔読んでいたまあ絵本やら児童書、随筆集や詩集、譜面など雑多な物を検めました。その中で、ふと昔好んでいた薄い本、と言っても至って健全な本を手にとりまして今回は紹介したいと思います。ネタが無いからね。仕方ないね。

今回紹介する本は「猫のつもりが虎」と言いまして、丸谷才一さんと言う先年お亡くなりになった物書きさんの書いた随筆集でございます。元は「JAPAN AVENUE」という無料雑誌に寄せた稿をまとめたものだそうですが、あいにくと私の物心付く前に終刊となってしまったらしく実物を手にとったことはないのです。

それはさておき、この丸谷さんと言う人は「たった一人の反乱」や「女ざかり」の作者とでも言えばわかってくださる方も多いだろうか。そう言ったちょっとおかしい人で、斜に構えている風でもないのだがエロ爺と言った風体でもありません。

と言っても肝心要の猫のつもりが虎に関してはそんな風俗小説ではないので小さなお子様にもお勧めする文には違いないのです。

さてこの本は概ねにして随筆ですから、必然と取り留めもない話を並べ連ねることになってくるわけで。そうなると、この著者がどうにも自由な奴だというようにに見えてくるのだからさあ困った。

一部を紹介させていただきますと、昔のポルトガル人が書いた風俗史の資料でポルトガル人が塩を入れずに米を炊くときは下痢を止めるためであるという文を読んだかと思えばその著者の出自なぞに想いを馳せ、挙句にその結論がポルトガルは塩の産地だからというところに落ち着くのです。勿論順を追って考えればあゝなるほどとは思うのですが、こういうひらめきのために編集者をこき使うとはなんともふてぇ野郎だと思いつつもそこはかとなくは感心します。

そう言った文章がざっと17篇まとまっているのがこの本なのですが、私の思いつく限り最初に読んだ随筆ということも有るのでしょうか。私の今現在の創作観というものに多大な影響を与えた作者、と言うよりは本の1つでありまして、苦々しく思わざるをえません。

ただし建築の批評家に関しては声を大にしてそんなものは要らないと言えるのです。なにせ俗なものですから。

見るなよ見るなよ~?

来ちゃった///。という訳で指名率が上位5位には入っているうふふの人です。

今回はいつもに増してネタが無いのでDさんのネタをパクってDさんと汚話してそれを乗せることでお茶を濁そう。

と、思ったのですが。次の日記はDさんに任せるにしてもあまりにも話しがやおいだったのでちょっと使えないレベルでしょう?ということでボツです。一応なんの編集もしてないテキストを貼っておくので興味アル人は読んでみてください。チャットの仕様そのまま使ってたので下から上に読む形となりすんげぇ読みにくいけどな!!

まあ、アレだ。汚話しようとは言ったけど日記にそのまま使うとは言っていないから(大人は間違いを犯す)

となると、代わりのネタが必要となるわけですがそもそもそんなものがないからDさんを付きあわせてしまったわけで。という訳でいつも道理(もっちん)にわけのわからないことをバーバーと書き立てておきましょうかね。

今を楽しむということは人それぞれで、傭兵として身を投じる人もいればハタから見ればちょっと痛々しい言動をしてもフフフ怖いか自分が楽しければいいという人もいるでしょうし、身を安んじることが楽しい人もいるでしょう。問題はその今という物が何者かということです。

今日のこなかった昨日が無いように明日のこない今日は無いなどと申します通り、物事には連続性というものが有ります。大雑把に言ってしまうと匙を投げれば飛んでいくし、飛んだ匙はいつか落ちるし、さじを投げられた方はそのうち死にます。これが連続性というものです。多分。別の例え方でものすごい簡単に言うと、ヤればできる。いい言葉だな、避妊の大切さを教えてくれる。と、いうことです。

こうして考えてみると私達はある事柄に関する連続した事柄を捉えることはできるのですが、その連続した中のほんの一瞬だけをそれと正確に認識しないで生きています。酒を飲まずにはいられないのもこういうことですね。

そういうわけで連続した今というものをどう過ごすかということにあたっては前後の事柄が重要になってくるのです。赤ん坊ができたということは某ヨシュア=サン以外はその前にセックスがあったわけですし、その後はお流しになるなりお産みになるなりする必要が有るわけです。

ほら、あるカミサマも言っているでしょう?「汝の為したいように為すが良い」と。これ違う神様や。まあ大体そんな感じなのでいいでしょう。つまり何がいいたいかというと、コムっかしい話はどうでもいいから楽しめよぉ~? ということ。