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六の日の菖蒲

六の日の菖蒲は、端午の節句にと設えられたものだった。が、時勢に遅れ、五の日はとうに過ぎていたから、すでに用も無いと言われ、売り様のなくなっていた。菖蒲は十日の菊と一緒に、機会損失という、戒めのために語り継がれていた。六日の菖蒲と云ふのは、時機を逃して役に立たないものであった。   十日の菊は仏法僧等に入用なので、貰われ手はあった。しかし六日の菖蒲は、花の咲く菖蒲とは別のものだったので貰い手はいなかった。ただ、使い道もないと花屋から打ち捨てられるのを待つばかりであった。菖蒲も刈り取られて幾分経つので、その葉はしおれかけてゐた。それは世の常であったが、あわれを誘うものだった。が、草の菖蒲は、格別不満も感じることはなかった。

と、いうところまでは思いついたのです。思いついたのです。ですが、この後どうすれば良いのかがわからないのです。菖蒲の根ならば漢方の薬になるのです。しかし、六日の菖蒲はどうあがいても菖蒲湯にはできないのです。一年も持たせることはできないのです。待たせることはできないのです。この話の元になった芥川氏の「六の宮の姫君」も待てなかったのです。5年で帰ると言った男を9年も待てなかったのです。なので男は姫との最後の逢瀬が死の間際となったのです。それもまた、機会損失なのです。

世にはかくにも機会損失が多いのです。六日の菖蒲しかり、五日から回された端午の節句に触れられなかったこの日記然り、ならばと喜び勇んで書いたこの日記もしばらくすればネタが風化してしまうのです。売り手(書き手)も買い手(読み手)もいるのに、時節が変わってしまえばネタが時期外れのものになってしまうのです。なんと恐ろしきかな時節ネタよ。

ですが、損して得取れと申しますように、損にも好機は巡ってくるのです。ギリギリとはいえ、死に目には会えたのです。持っている株が下落しても、売らずに持っていれば、そのうち高くなるのです。古いパンを買っていれば、見かねたミス・マーサがバターを塗ってくれるのです。言わば、未来への投資なのです。そしてその投資は帰ってくるのです。不利益とともに。バターを塗られたお陰で、市役所の設計図は切り刻んで、味の足りないサンドウィッチにするしかなくなったのです。株を持ち続けたお陰で、売りたくても売れない状況に陥るのです。死に目にあったからこそ念仏を唱えられずに、極楽も地獄も知れなかったのです。損をして特をすることなどまず無いのです。損ではなくて捨てたと思いなされ。損ではなく破棄なのです。損ではないのです。破棄なのです。このネタも損ではなく、おためごかしの破棄なのです・・・

 

捨てる神あれば拾う神あり。捨てられたこの日記を拾って下さったのはロベルトさんだったそうです。

2 Comments.[ Leave a comment ]

  1. ところでゲストアカウント使おうず。

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